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台湾への留学 近藤龍夫

もう半世紀も前のことだが、神戸港から3,000トン余りの貨客船に乗って、台湾の基隆港へ向かったときのことを、いまも鮮明に覚えている。途中、台風に出会い、船は木の葉のように波間を漂い、1週間もかかって基隆にたどり着いた。乗客5人のうち、船酔いしなかったのは私1人で船長にほめられた。
大学で4年間、中国語を勉強したが、卒業しても、いまと同じように、いやそれ以上に就職難の時代で、中国語を生かしながら何ができるのかいろいろと悩んだ。人生は一度しかない。青春は二度とこない。そんな気持ちが、いつの間にか台湾留学へと心を動かした。
当時、日本は国共内戦に敗れ、台湾に敗走した中華民国政府(国民党政権)と国交を結び、中国大陸全土を支配する中華人民共和国(共産党政権)とは国交はなく、大陸への渡航はむずかしかった。中国人社会で中国語をはじめ中国について勉強するには、台湾か香港が有力な留学先であった。
なかでも、公費留学となると台湾に限られ、そこで台湾留学に応募することにした。だが、大学の先生たちから「国民党政権が支配する台湾などへ留学すると、将来、中国大陸へ行くことはできなくなるぞ」と反対の意向が伝えられた。1950年代当時、国民党と共産党は敵対関係にあり、福建省対岸の金門、馬祖両島では、国共の砲撃戦が繰り広げられていた。
でも、青春は二度とこない。政治活動のために台湾へ行くのではない。中国語を学び、中国の歴史を勉強するために行くのだ。そう決心し、台湾へ渡り、台湾大学歴史研究所に入った。いま思えば、その決断は間違っていなかった。
私は敬愛大学で教鞭を執る前、30数年にわたって新聞記者をしていた。その間、10年余り、香港、北京に駐在し、中国報道に携わった。香港駐在は、日中国交正常化(1972年)後、間もない時で、まだ、東京.北京を直接結ぶ空の便はなく、訪中者は香港経由で中国へ向かった。欧米諸国、東南アジアの人たちも香港経由で訪中した。香港はまさに中国の表玄関であった。それだけに、香港にはあらゆる中国情報が持ち込まれ、「香港情報」として世界に流れた。
香港駐在記者の主な仕事は、この雑多な情報を分析し、できる限り正しいものを報道し、中国の実情を世界に伝えることであった。その情報分析に当っては、中国人の物の考え方、行動様式などを理解しつつ、中国近現代史の知識を物差しに分析し、記事にすることが要求された。日本で書物からだけの勉強では、中国人の物の考え方、行動様式などを深く理解することはむずかしい。中国人社会で生活してこそ、それらがわかるようになる。台湾留学はこれに十分応えてくれた。
香港勤務を終え、いよいよ本番の北京勤務が始まるに当り、かつて「台湾に留学した」ことが障害になったかと言えば、まったくそんなことはなかった。東京の中国大使館で駐在ビザの申請をしたが、係官から台湾留学の目的について質問されただけでビザは下りた。
中国を取り巻く状況は日中国交正常化に加え、米中接近の時代へと変化していた。中国国内でも文化大革命が終息し、改革・開放路線へ移ろうとしている時代でもあった。中台関係は依然、対立状態にあったとはいえ、「台湾に留学した」、そのことを問題視し、ビザを発給しない共産党政権なら新しい時代を築くことはできないと思っていた。その読みは正しかった。
北京勤務でも台湾留学の経験、知識が役立ったのは言うまでもない。時には、台湾事情を教えてほしい、講演会で話をしてほしいと頼まれたりもした。「鉄は熱いうちに打て」と言う格言があるように、若いうちにいろいろと経験し、知識を蓄え心身を鍛えておくことが大事だ。留学はそれを可能にする。ただし、留学する以上、まじめに勉強してほしい。「遊学」には反対だ。青春は二度とこない。世界に向かって羽ばたこう。