はじめにー退職にあたって思うことー
こども教育学科 田村教授
2012年4月から6年間にわたって国際学部こども教育学科で社会科教育を担当した田村です。教職は人気職種ですが、最近いろいろな問題を抱えているのも事実です。そんなひとつの事例から、私の専門とする西洋史や西洋文化に関係のある問題を、比較文化史的に少し展開してみたいと思います。
「先生、学校ってブラック企業ですか」
敬愛教師塾講座での学生
こういった問いを最近教員志望の学生から受けるようになりました。教職は長時間労働というイメージが定着しているようです。確かに、部活指導や保護者対応、書類づくりや会議などのために、深夜まで校内に長時間とどまらざるを得ない教師も少なからずいる様子です。他方、教育先進国フィンランドのある高校では、午後3時には全教員が帰宅してしまい、翌朝は、担当の授業の始まりに合わせてバラバラに出勤してくるといいます。さらに教科担任と進路指導、クラブ活動の担当者はそれぞれ別人であり、教科担任は授業準備が仕事の中心で残業はせず、平日でも家族で夕食をともにするのは当たり前なのだそうです(朝日新聞2018年2月4日「いま先生たちは。多様な現場3」)。
キリスト教の教えでは、労働とは、アダムとイヴが蛇の誘惑に負け、神の命令を破って禁断の木の実を食べて性の快楽を知った罪(原罪)に課された贖罪行為とされています。すなわち神に与えられた罰として、男は終生固い大地を耕して食物を得なければならず、女は産みの苦しみに耐えて子を生み育て、男の支配に屈しなければならないのです(旧約聖書「創世記」第3章)。laborという語には労働という意味のほかに出産・分娩という意味もあるのは、この逸話がもととなっています。労働が罪滅ぼしの行為であるならば、労働にかける時間はできるだけ短い方がよいでしょう。残業なんてとんでもない。キリスト教文化圏における労働観の根底にはこのような考え方があります(川田順造『〈運ぶヒト〉の人類学』岩波新書)。
キリスト教の教えでは、労働とは、アダムとイヴが蛇の誘惑に負け、神の命令を破って禁断の木の実を食べて性の快楽を知った罪(原罪)に課された贖罪行為とされています。すなわち神に与えられた罰として、男は終生固い大地を耕して食物を得なければならず、女は産みの苦しみに耐えて子を生み育て、男の支配に屈しなければならないのです(旧約聖書「創世記」第3章)。laborという語には労働という意味のほかに出産・分娩という意味もあるのは、この逸話がもととなっています。労働が罪滅ぼしの行為であるならば、労働にかける時間はできるだけ短い方がよいでしょう。残業なんてとんでもない。キリスト教文化圏における労働観の根底にはこのような考え方があります(川田順造『〈運ぶヒト〉の人類学』岩波新書)。
西欧と日本での労働「契約」に対する考え方の相違
田村教授の講義
労働の内容を保証するものが「契約」です。西欧社会では、会社と取り交わした労働契約がすべてであり、労働時間や仕事の分掌はこの「契約」によって決められます。日本では様々な場面で契約や取り決めが存在していても、その運用はしばしばルーズに流れ、契約どおりにことが運ばないことも多いのではないでしょうか。しかし西欧社会では「契約」は絶対です。この違いはどこに起因するのでしょう。そもそも「契約」という考え方はいつ頃から西欧文化圏に生じたのでしょうか。
それを解く鍵が旧約聖書の「創世記」第17章にあるように思います。そこには全能の神がアブラハムに対して「契約」を立て、アブラハムとその子孫の神となること、そしてカナンの地(現在のパレスチナ地方を含む地域)をアブラハムとその子孫に永久の所有地として与えることを約束し、引き換えにアブラハムの子孫の男子はすべて、割礼を受けることを「契約」の証しとしなければならないことが記されています。すなわち「契約」という概念は、キリスト教文化圏においては、数千年前に起源を持つ考え方であり、生活にしみ込んでいるものなのです。しかしながら、神との契約を守った人間にだけ神が恩恵を与え、契約外の者はその対象としないというこの考え方は、日本人にとっては違和感があるものです。仏の慈悲はあくまで深く、あまねく衆生におよぶ、と何となく思っている日本人は多いのではないかと思われます。その代償はせいぜい念仏を繰り返し唱えるか、お題目を唱える程度のことで、神と契約を交わし、その契約を守る者だけが救われる、すなわち天国で永遠の生命を得ることができる(極楽浄土に入れる―仏教)という考え方は、あまり日本人にはなじみがないのではないでしょうか。日本では「契約」が西欧社会ほど重きをおかれていないのは、このような宗教的、文化的な伝統が欧米のキリスト教圏と異なるからでしょう。
それを解く鍵が旧約聖書の「創世記」第17章にあるように思います。そこには全能の神がアブラハムに対して「契約」を立て、アブラハムとその子孫の神となること、そしてカナンの地(現在のパレスチナ地方を含む地域)をアブラハムとその子孫に永久の所有地として与えることを約束し、引き換えにアブラハムの子孫の男子はすべて、割礼を受けることを「契約」の証しとしなければならないことが記されています。すなわち「契約」という概念は、キリスト教文化圏においては、数千年前に起源を持つ考え方であり、生活にしみ込んでいるものなのです。しかしながら、神との契約を守った人間にだけ神が恩恵を与え、契約外の者はその対象としないというこの考え方は、日本人にとっては違和感があるものです。仏の慈悲はあくまで深く、あまねく衆生におよぶ、と何となく思っている日本人は多いのではないかと思われます。その代償はせいぜい念仏を繰り返し唱えるか、お題目を唱える程度のことで、神と契約を交わし、その契約を守る者だけが救われる、すなわち天国で永遠の生命を得ることができる(極楽浄土に入れる―仏教)という考え方は、あまり日本人にはなじみがないのではないでしょうか。日本では「契約」が西欧社会ほど重きをおかれていないのは、このような宗教的、文化的な伝統が欧米のキリスト教圏と異なるからでしょう。
日本における労働観
教員採用 2次試験対策講座
日本では、こと労働に関しては、期待される内容以上のことをやり遂げてこそ一人前とされます。若き秀吉が、織田信長の草履を冬に暖めて供したという伝承は、主君の出発時に履物をそろえるだけではなく、ふところに入れて暖めるという期待される以上の自己犠牲的な行為と合わせて、あっぱれと評価されるのです。このことは、時には自らの生命を犠牲にしてまで長時間働き、周囲の期待以上の成果をあげることに容易に直結するでしょう。集団主義的同調圧力の強い日本の学校や会社においてはなおさらかも知れません。すなわち、残業厭うべからずなのです。
過労死を伴うような長時間労働のあり方はようやく批判の対象とされるようになったとはいえ、根底の労働観が変わらない限り、長時間労働は容易にはなくならないのではないでしょうか。しかしながら、少なくとも部活指導のあり方などをめぐって、教員の労働に関してはマスメディアで積極的に取り上げられるようになりました。こうした傾向をもっと進めていくことによって、学校現場においては、いずれもっと働きやすい条件が整うようになると思われます。
過労死を伴うような長時間労働のあり方はようやく批判の対象とされるようになったとはいえ、根底の労働観が変わらない限り、長時間労働は容易にはなくならないのではないでしょうか。しかしながら、少なくとも部活指導のあり方などをめぐって、教員の労働に関してはマスメディアで積極的に取り上げられるようになりました。こうした傾向をもっと進めていくことによって、学校現場においては、いずれもっと働きやすい条件が整うようになると思われます。
おわりに
上記のように、敬愛大学に在籍した6年間、西洋と日本の諸問題について彼我のちがいを少しずつ折に触れて講じてきました。学生のみなさんが社会に出た暁には、自分の周囲の不合理な物事を少しでも根本的なところから合理的に考えて、よりよいと思われる方向に変えていける主体になることを願っています。
みなさま、6年間どうもありがとうございました。
田村 孝(こども教育学科 教授)
みなさま、6年間どうもありがとうございました。
田村 孝(こども教育学科 教授)