学生懸賞論文  
一(いち)アメリカ兵士のベトナム戦争 ─Bruce Anello (1947/8/24~1968/5/31) の日記が伝えるもの─ パム・ドゥク・クアン

第1章 戦争に対する兵士の認識

 1954年、フランスに対するベトナムの勝利はアジアだけでなく全世界へ影響し、世界各地の植民地で民族解放運動に携わる人々に希望を与えた。そこで、共産主義の膨張を恐れたアメリカは世界に対して、民主主義と自由世界を共産主義から守る責任が自分にあると主張し、これを果たすためにベトナムで軍事戦略を実行した。1954年から1965年の間、アメリカは南ベトナム政府に資金援助をしたり軍事顧問を派遣したりするなど徹底的に支援したが、あまり効果がなかった。 1965年から1973年までの8年間は、アメリカ軍の戦闘部隊がベトナム戦場へ送られ、直接に参戦していた期間となった。南ベトナム戦場におけるアメリカ軍の兵力が年々増強されていくにつれ、戦死した兵士の数も急速に増えたことが以下の表から読み取れる。8年間で、アメリカ軍兵士の数は7倍近くになり、また死亡人数は114倍以上も増えたことがわかる。

 南ベトナムの
アメリカ軍兵力(人)
アメリカ軍
戦死者総数(人)
 1965年 7月 81,400 509
 1965年12月 184,3001,594
 1967年12月 485,60015,979
 1973年 1月 543,400( 1969年4月以来)58,191

 本章においては、兵士が戦争の意義をどのように考え、理解していたのかを見ていきたいと思う。

第1節  戦争の意義のあいまいさ

 ベトナムでは、アメリカ合衆国は「アメリカ帝国」と呼ばれ、ベトナム戦争は「抗米救国戦争」と呼ばれていた。文字どおり、祖国を救うために帝国主義のアメリカに対抗し戦った戦争である。ベトナム側から見ると、この戦争は、封建時代に中国に対抗し、植民地時代にフランスと戦った過去の戦争と同様に、外国からの侵略に対して自分たちの国を守るための正義の戦争であった。ベトナム民族は自分たちの存在と自分たちが住んでいる領土の確保を長い歴史の中でずっと維持し続け、かつて最強といわれたあのモンゴル帝国に勝利した民族としての誇りを持つ。同化と侵略に対してあきらめることなく勝利と自由が手に入るまで徹底的に戦い続けてきた。1954年、共産主義者の指導の下で自国の腐敗した封建制度から解放されたベトナム国民は一致団結でフランスに勝利し、社会主義国の建設に力を入れた。ベトナム人は社会主義に満足し、「独立-自由-幸福の共産主義」という目標に向けて日々努力を重ねていた。

 このような国に、そして民族に、強大な軍事力を持つ超大国アメリカは宣戦もせず攻撃しにやってきて、生活がまだ困難であった北ベトナムの人々の頭に爆弾を落とし、南ベトナム政府を自分の好きにコントロールしようとした。これが、ベトナム側から見たアメリカの姿であった。共産主義からベトナム人を救いに来たという宣伝文句は、共産主義を目標としてがんばって生きているベトナム人にとって意味がなかったし、これは明らかに侵略行為であった。アメリカの戦争指導者たちの挙げた理論や理由が何であれ、アメリカ人を含む全世界の人々にとってこの戦争は意味のはっきりしない戦争であった。当時アメリカ国内で、そして世界各地で起きた「ベトナム戦争反対運動」がこのことをはっきりと示していた。

 果たしてのこういった状況の中、戦地に送られたアメリカ軍の兵士たちは戦争をどのように理解していたのだろうか。その認識が彼らの精神状態にどう影響したのかということを次に見ていきたいと思う。

第2節  戦場の兵士は現状を理解していたのか

 「なぜおれたちはここにいる。その疑問がいつも頭の中にある。」(1967年10月28日)1967年10月16日、San Francisco湾から出発し、南ベトナム戦場に着いたBruce Anello(以下、Bruceという)が最初に書いたのはこの記述である。20歳の青年はまだ自分たちのこの地における存在の意味が理解できていなかった。先のことに対して彼は不安を感じていた。 なぜ自分たちがここにいるのかという疑問は不安とともに彼の頭から消えることはなかった。

 それから2 ヶ月ほどが経った頃、戦闘なども経験したところで、またも疑問が生まれてきた。1967年12月21日の日記には、「おれたちはここで何をしてるのか」と書かれていた。自分たちの存在意義のみならず、今度はさらに自分たちの行動と役割まで疑い始めたのであった。朝Bruceのパトロール隊はある村に入り、前の晩そこに南ベトナム解放民族戦線(以下、解放戦線という)がいたことを知り、民家を燃やした。民間人を守るのかどうするのか。守るのであれば、なぜ彼らの家を燃やしたのか。この状況の中で農民は解放戦線の人たちについて行けばいいのか、それともアメリカ軍の自分たちについて行けばいいのか。こういった疑問が彼の頭を占めた。そしてこのような矛盾した行動が続いたことで、戦場の兵士たちはさらなる疑いを抱くことになった。「その町を救うためにそれを破壊する」とは、あるアメリカ軍士官の発言であった。この言葉はアメリカのメディアで伝えられ、ベトナムにおけるアメリカの戦争政策と戦争努力の矛盾を象徴するものとなった。「その町」を自分の仲間であると考えると、仲間を救うために結局仲間を殺すのであれば、いったいこの戦争はアメリカ人にとって何の意味があるのか。 そしてこの戦争自体は何か。このような状況は、ベトナムで戦うアメリカ軍兵士だけでなく世界各地の人々にも疑問をもたらすこととなった ※5

 「敵」であるベトナム側の兵士たちの精神力が強いとBruceは言っていた。なぜなら、自分の国の独立と自由を守るために戦っているという明確な目的があったからということも彼にはわかっていた。「ここは彼らの国だからこそ、自らの国のために犠牲になる」(1968年2月12日)。それと比べて、アメリカ軍兵士が戦う目的はない。このようなことは、戦場の兵士にとって最もつらいことであると思う。Bruceもこのベトナムという国を奪いたくなかった。それなのに、「勝つためのものがない」戦争を戦い続けなければならなかった。「勝つためのものがないのに何に対して勝つっていうんだ」と彼は叫んでいた。戦地に赴くということは、死に向き合うことである。しかし、目的のない戦いのために自分はこのまま死んでいいのか。自分の命を無駄にしていいのか。こういった疑問がアメリカ人兵士の戦う勇気に影響を及ぼすことになったと考えられる。  「もう5 ヶ月もここにいるのに、何のために戦ってるのか、まったくわかんない。」(1968年3月20日)  Bruceは自分の書いた日記を読んでも、そしてこの地での怖い経験を振り返ってもベトナム戦争に対する疑問に結論が出ないと言っていた。5 ヶ月というベトナムでの義務期間 ※6の半分近くが過ぎたにもかかわらず、理由(なぜ戦う)や目的(何のために戦う)といった戦争の意義を悟らないまま、あるいは疑問を持ったまま戦場で戦い続けなければならない兵士がいたのであった。領地を増やしたわけでもなく奪還したわけでもないのなら、いったい自分がここで何をしているのだろうとあるアメリカ軍兵士はベトナムで叫んでいたという ※7。また、マレー・ポルナー氏が戦争中に200人以上の帰還兵を対象に行ったインタビューによると、「すべての者が戦争の意味、そしてアメリカの役割について疑問を持っていたことが判明した」のであった ※8。  1968年3月18日、「Search and Destroy作戦」に参加していたBruceは捜索と破壊を繰り返すうちに、どちらにしても自分が現地の人に嫌われるだけという現実に気づいた。自分の努力の結果から得たものは、現地の人々の冷たい態度であった。自分たちがベトナム人を救いに来たのになぜベトナム人に嫌われ、敵視されるのだろうと思う兵士もいた。しかし、「共産主義者と民族のための正義の戦い」を支持したベトナム人の目には彼らが自由と幸せを奪いに来ている侵略者である存在としか映っていなかった。1965年8月からアメリカ軍は次々と作戦を展開していき、1966年に本格的なSearch and Destroy作戦が始まった ※9。この作戦の本来の目的は敵を捜し出して殺すのであるが、敵でない民間人まで巻き込む悲惨な結末を引き起こす実に残酷な作戦でもあった。1968年3月16日の朝、ある恐ろしい事件が起きた。アメリカ軍はQuang Ngai省のSon My村My Lai部落を襲撃しにやってきて、女性と子供も含む非武装のベトナム民間人数百人を殺したという事件であった。当初、この事件は単なる解放戦線の部隊との戦いであると発表されたが、その1年9 ヵ月後の1969年12月にアメリカの「ニューヨーカー」誌が報道し、「ソンミ村虐殺事件」(あるいは「ミライ虐殺事件」)として広く知られるようになった。この大虐殺事件はアメリカ軍の歴史に残る汚点となり、アメリカに対する世界各地の批判と反戦運動が強まることとなった ※10。さらに、アメリカ軍兵士がますますベトナム人に嫌われるようになった原因の一つでもある。  ベトナムで戦っていた兵士には、本当のことは何か、そしてどうすればいいのかを、まったくわからないまま戦い続けていた者がいた。戦争の意義など関係なく、もうここに送られたから、ここですでに戦っていたから、このまま戦い続け、期間が終わるまでただ待っていただけの者もいた。どちらにしてもアメリカ軍兵士のベトナム戦争に対する認識は不十分で、あいまいなものであった。このことは彼らの精神に影響し、危険な状態に追い詰めることとなったと考えられる。  Bruce自身は戦場に出るとき、頭を低く伏せ、片足を挙げることを経験で学んだ。1回負傷すると2週間の休みが取れ、そして2つの「パープルハート」 ※11がもらえたら永遠に戦場から離れられるという。1968年3月21日、日記には「これは怖いやり方だけど、最近の戦闘で挙がった手や足が多く見えた」と書かれた。兵士たちは戦いたくない、戦闘が怖い、戦場から離れたいという気持ちであった。彼らが取った行動は、敵からの銃弾が当たっても死亡に至らず負傷だけで済むように戦闘中、手や足を挙げることであった。なぜなら、3回負傷したらすぐに帰国できるという軍隊の規定があったことを彼らは知っていたからである。しかしなんと言っても、これは危険であった。それにもかかわらず、戦闘で挙がった手や足が多く見られた。戦場の兵士の追い詰められた精神状態が伺える。しかし、戦場に出たことのない後方の基地の兵士の方がより退屈で絶望的だろうとBruceは書いた。1968年3月21日の日記には、一人の兵士が45口径(12ミリ相当)の銃で自分の頭を撃ったという記述がある。もはや逃げ道がないと知り、自分の体を傷つけたり、自殺まで試みたりするほどこの戦場から離れたいという気持ちを持つ兵士たちがいた。  戦争の意義もわからず戦い続けなければならなかった状況の中でアメリカ軍兵士は自分たちの存在を疑い、行動と役割を疑い、そして戦争自体を疑うようになったのは事実であった。疑問を持たずにベトナムに送られた兵士たちでも戦争を続けるうちに、自分のさまざまな体験からベトナム戦争の意味を考えるようになったという ※12。徐々に不安と疑惑が増し、彼らの士気が低下し、戦う勇気がなくなっていったと考えられる。

※4 ロバート.S. マクナマラ著、仲晃訳『マクナマラの回顧録―ベトナムの悲劇と教訓―』(共同通信社、1997 年)、428ページ を参考。

※5 清水知久著『ベトナム戦争の時代』(有斐閣、1985年)、40ページ。

※6 ベトナムにおけるアメリカ軍兵士の従軍期間は1年間と規定されていた。(Huu Ngoc,“ Diary of a G.I. Who Fell in the Vietnam War”, A File on American Culture (The gioi, 1995), p.756)

※7 マイラ・マクファーソン著、松尾弌之訳『ロング・タイム・パッシング―ベトナムを越えて生きる人々―』(地湧社、1990 年)、72 ページ。

※8 マイラ、前掲書、104ページ。

※9 亀山旭著『ベトナム戦争』(岩波新書、1972年)、96ページ。

※10 亀山、前掲書、37 ページ 及びhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%9F%E6%9D%91%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6 を参照。

※11 「パープルハート(purple heart)」とは、名誉負傷章のことで、戦闘によって負傷したアメリカ軍兵士に対して与えられる勲章。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%AA%89%E8%B2%A0%E5%82%B7%E7%AB%A0 を参照。軽重を問わず、1回負傷したア メリカ軍兵士は1つがもらえる。2回負傷したら戦闘を免れる。3つがもらえると、ベトナムでの従軍期間が終わっていなくてもアメリカに帰国できる。(Huu Ngoc, 前掲書, p.763)

※12 亀山、前掲書、110ページ。


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