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【国際学部】佐倉市との協定に基づく活動(2016年度)

 佐倉市は敬愛大学国際学部揺籃の地です。1990年4月に千葉敬愛短期大学国際教養科が設置され、97年4月、敬愛大学国際学部国際協力学科に改組されました。以後、2009(平成21)年4月に稲毛キャンパスに移転するまで、20年近くを緑豊かな佐倉キャンパスで過ごしました。
 その縁もあって、2015年2月17日、敬愛大学と佐倉市の間で、連携協力に関する包括協定が締結されました。今年度も昨年度に引き続き、「佐倉市との地域連携事業に向けての試み」を実施しました。その様子をご紹介します。(文責:村川)

7月23日 佐倉研修1:「佐倉を歩く」研修

佐倉市役所企画政策課のご協力を得て、「佐倉を歩く」研修を実施した。

武家屋敷
 江戸時代の雰囲気を残す土塁と生垣の通りの奥に、鏑木小路の3軒の武家屋敷―旧河原家、旧但馬家、旧武居家―が並ぶ。関東で最大級の武家屋敷群と言われている。佐倉藩の城下町は、武士の居住地域と商人の居住地域に分けられ、武家屋敷は藩所有で、俸禄に応じて割り当てられた、いわば「社宅」であったとの説明があった。屋敷の広さばかりでなく、間取りや壁の色まで身分による違いが見られる。
房州屋(船もりそば):
 100年を超える歴史をもつというお蕎麦屋さんで「船もりそば」ランチ。
堀田邸
 幕末の老中、堀田正睦の後継、正倫が建てた明治中期の住居。一見純和風の建物に西洋工法が随所に採り入れられている。現在は樹々が育って周囲の近代的な建物を隠してくれていて、映画やドラマの収録にしばしば使用される。正倫は農業と教育を重視したと言われ、明治30年には邸内に当時の千葉県を代表する研究機関として堀田家農事試験場を併設している。佐倉中学(現:佐倉高校)の敷地(約28000㎡、8700坪)の購入費と校舎の建設費全額を寄贈したのも彼である。
順天堂記念館
 「西の長崎、東の佐倉」と称されたのは、この地の蘭方医学の発展があったからだという。「蘭癖」と呼ばれた堀田正睦に招じられて江戸の薬研堀から佐藤泰然が開いた蘭方医学研修所兼治療所が順天堂の開祖となる。手術の道具(骨切り鋸、など)や手術の料金表、手術の承諾書も残されており、当時の医療の「近代化」は想像以上であった。麻酔薬がまだ開発途上で、できるだけ使わないようにしていたとのこと。「取りあえず、手術を始め、気絶してしまえばその後の痛みは感じない」との説明に「現代に生まれて良かった!」の声がしきりであった。

ふるさと広場にて

?印旛沼 ふるさと広場
 最後は印旛沼の畔のふるさと広場で一休み。オランダとの関係を記念した本格的な風車と、一面のひまわりの花が迎えてくれた。

 旅の企画は企画政策課の上野裕子氏が作成してくださり、当日は同課佐倉プロモーション課の山口真宏氏、東城光紀氏が付き添って下さった。土地勘がなく、時間に追われる私たちには大いに助けとなった。

2017年1月6日 佐倉研修2:順天堂記念館-佐倉市を多言語で紹介するプロジェクト

順天堂見学開始

  7月23日の佐倉研修が学生に好評であったことと、盛り沢山で消化不良に終わった反省から、焦点を佐倉順天堂記念館に絞って、再訪した。記念館で1時間余を過ごし、国立歴史民俗博物館に移動した。

学生のコメント1:
 展示されているものの中でとても驚いたのが手術をする前に同意書を書く紙があった事である。私の勝手なイメージだが、ずさんな感じで医療行為を行っているのかと思っていたからである。なぜなら医療がそんなに発達していなかった日本で、最新の医療知識を海外から学んだとはいえ、ただ単に手術をやるだけで、亡くなっても責任を取ることはないのかなと思っていたからだ。同意書がきちんとした証拠にもなるので、患者が手術中に亡くなっても大丈夫なように徹底している事がずっと昔から行われ、現在につながっていると思うと感動した。(4年 大越俊幸)

ネパールの学生も熱心にメモを取る

学生のコメント2:
 医者としての要求は非常に高い。館内でオランダ語を日本語訳に翻訳した本はたくさんある。理由を聞くと、順天堂では生徒たちは医学を勉強する前にオランダ語を学ばなければならない。しかし、当時辞書がないので数名の生徒たちはひとつの本を読んで、一緒に研究し、翻訳していた。・・・生徒たちは毎日勉強し、週末もない。さらに、医者にとしての活動を規範するために、順天塾規則が設けられた。順天堂の学生は医者になるためにたくさんの努力を払わなければならなかった。実は現在も同じで世界中の医学部の授業は大体五年間だ。過去でも、現在でも普通の人たちより医者に対する要求が高いことが分かる。これらの展示を見た後、私は医療従事者に対する尊敬がさらに高まった。(2年 王堯玉)

研修の参加者

 国立歴史民俗博物館では、久留島浩館長に館所蔵の順天堂関係の資料の歴史的意味を中心にお話をうかがった。この地で、堀田正睦という稀有な指導者が家臣に蘭医学や蘭学一般を学ぶことを奨め、教育環境を整えたこと、一般の庶民の教育水準も高かったことが、順天堂出身の優れた医療者を育て、更に幕末から明治にかけてこの地から世界を目指す人材を輩出させたものと思われた。

教員のコメント:
 近くに住んでいながら、順天堂記念館にはまだ行ったことがなく、興味津々で見学いたしました。なぜ佐倉で西洋医学の芽が生まれたのかは、久留島館長のお話しでよくわかりました。江戸時代後期は生産力が上がり、民衆の教育レベルも上がったからという説明は明快でした。その中で堀田正睦という蘭学好きの殿様が出たという二つのことが重なってのたぐいまれな現象だったようですね。(田村孝学部長)

講演中の久留島博館長

 館長の講演の後、博物館のバックヤードツアーに参加した。普段見ることのない、資料の搬入から燻蒸、保存までの現場を見学し、詳しい解説を受けた。

学生のコメント3:
 研修に参加し、普段見られないようなところに行くことができてとても刺激になった。歴史を学ぶのは嫌いではないが、記憶に残らなかったり、印象に残らずにすぐに忘れることが多かった。佐倉順天堂や博物館に行き、実物の道具や資料などを見ながら歴史を学ぶことはとても面白く感じた。また、ただ昔のことを知るだけでなく、現在と比較して、同じところや大きく違うところのポイントを見ることで知識が深くなったと思った。(3年 伊藤美雪)

2月8日 佐原の町を歩く

 風邪やインフルエンザで参加者が大幅に減ってしまったが、予定通り、佐原での研修を行った。佐原は2016年に佐倉、成田、銚子と共に「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」として日本遺産に指定された。更に、昨年暮れ、佐原の「山・鉾・屋台行事」がユネスコ無形文化遺産への登録が決定した。2011年の地震では、地震と液状化で大きな被害を受けたと聞いていた。重要伝統的建造物群保存地区に指定された旧市街の土蔵造りの商家も瓦が落ち、壁が崩れたという。特に町の中心を流れる小野川は液状化による被害が大きかったが、現在は急速に復興が進んでいた。

伊能忠敬旧宅にて

 佐原は利根川の水運で栄えた町である。江戸時代にタイムスリップしたような街並みが続く。下総台地の北端に位置し、北側に中世まで香取の海(浦)と呼ばれる内海が広がっていた。現在の霞ケ浦、北浦、印旛沼、手賀沼を一続きにした広大な内海で、岸に多くの河港が並び、水上交通が盛んであった。
 研修は伊能忠敬記念館から始まった。伊能忠敬(1745-1818)は日本国中を測量し、実測による日本地図を完成させた人物である。伊能家に養子に入り、家業(醸造)に勤しみ、家督を譲り隠居した後江戸に出て測量法を学び、55歳から71歳まで全国を回る。記念館には伊能図(1821年に完成した「大日本沿海輿地全図」など)が展示されており、風景画が描き込まれた絵のような美しさに思わず見とれてしまった。

復興なった小野川沿いの家並

 忠孝は天文学などにも造詣が深く、購入した書籍のリストなども残されている。佐倉だけでなく蘭学が千葉の片田舎にも浸透していたことに気づく。当時、ロシアの南下に備え海岸線防衛を強化するため蝦夷地の測量と地図作りが急がれた。幕末、シーボルトが持ち出そうとして国外追放に処され、これを助けた幕府天文方の高橋景保らが処分されたシーボルト事件も、伊能図のコピーをめぐる事件であった。日本の「国際化」の揺籃期の様が見えてくる。
 参加した学生の一人は九十九里の出身で、忠敬の生家に近かった。子どものころから銅像の写生などを行っていたが、彼の具体的な仕事を見たのは初めてだったと興奮気味に語っていた。
 佐原の街歩きには市のボランティアガイドをお願いしていたが、敬愛短期大学の元学長の伊藤先生の奥様が担当して下さった。郷土に誇りを持ち、地震の後の復興、日本遺産や世界文化遺産の登録を喜んでいらっしゃることが伝わってくるような気がした。「また来てみたい」という学生たちの言葉に我々も元気づけられた。

3月12日 津田塾大学・敬愛大学・佐倉市コラボ講演会「佐倉の国際性:津田仙から梅子へ」

講演会

 共同研究の今年度最後の催しは3月12日に開催された佐倉市民カレッジ公開講座 津田塾大学・敬愛大学・佐倉市コラボ講演会「佐倉市の国際性-津田仙から津田梅子へ」であった(於佐倉市中央公民館)。第一部は津田塾大学学長高橋裕子氏の講演「文明開化期に生きた女性-津田梅子と父仙」、第二部は「佐倉の国際性と仙の生きた時代」と題して高橋学長、内田儀久(佐倉市史編さん委員)、山本健(本学国際学部教授)、村川庸子(同上)の4名をパネリストに、進行を高田洋子(本学教授)が務めた。当初定員は200名ということだったが、最終的に申込みは364名に達し、大盛況であったが和やかな雰囲気の中で行われた。蕨佐倉市長、教育長を初め佐倉市役所の方々、津田仙の子孫にあたる方々もご参加くださった。

  津田仙は佐倉藩士の家に生まれ、「蘭癖」と仇名された堀田正睦の時代に藩校で教育を受けている。黒船来航の折に寒川で防御にあたった経験から進んだ西洋文明に関心を持ち、英語を学び、慶應3(1867)年、軍艦購入のため米国に派遣された小野友五郎一行の通訳として渡米している。米国での見聞・経験に大きな影響を受け、帰国後は「農学者、教育者、キリスト教的企業家、慈善事業家」として、特に農学と教育の分野で大きな功績を遺す。津田塾大学を創立した津田梅子は彼の次女で、6歳の彼女を日本初の女子留学生としてアメリカに送り出したのも父仙であったと言われている。

ハルマ和解

 パネルでは村川が「仙の見たアメリカ、そして日本」、山本が「津田仙の時代」、内田氏が「佐倉の国際性と津田仙」というテーマで話題を提供した。話題が多様で、一人当たりの持ち時間が15分ということで、不消化な部分は残したが、仙という人物、彼を育てた「佐倉」に様々な角度から光を当てることはできたのではないだろうか。参加者のアンケートも概ね良好ということでほっと胸をなでおろしている。本学教員3人の間でも何度か意見交換の会を持ち、関心は高まっている。できれば学生も巻き込んで更に研究を進めることができればと考えている。
 尚、午前中、村川は、佐倉高校の地域交流施設所蔵の鹿山文庫を見学した。佐倉藩の藩校(佐倉学問所は1792年開設)や順天堂関連の資料が保存されている。我が国初のヨーロッパ語辞書「ハルマ和解」をはじめとして、植物学など洋学関係の貴重な資料が多数保存されており、その一部が公開されている。今後の研修の場に加えていきたいと思う。

これらの活動は、「国際学部でフード&アグリ」の取組みの一環として実施しています。
2016年度のフード&アグリの活動の様子はこちらです。