グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



カテゴリ画像
ホーム  > 国際交流  > 留学体験記  > 私にとってのアメリカ 村川庸子

私にとってのアメリカ 村川庸子

日米比較文化論、アメリカ研究などを専門としていて、アメリカにはこれまで20数回は行っていますが、長期の滞在は1977~78年と1999~2000 年の二度だけです。1977年は大学院の修士課程に入ったばかりで、初めての渡米でした。旅立つ時は羽田、帰国したのは開港間もない成田空港でした。1999年は、敬愛に勤務して既に十年が経過していて、サバティカル( 研究休暇) 制度を用いての渡米でした。先の方は文部省関係の団体からの奨学金、後の方はフルブライトというアメリカ政府関係の奨学金をいただきましたので、経済的には恵まれた留学、研修でした。
最初は、カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校に交換留学生として送られました。キャンパスはダウンタウンから少し離れた海辺にあり、カリフォルニアの青い空、メキシコ/スペイン風の白い壁とオレンジ屋根の家々が軒を連ね、ハイビスカスやブーゲンビリアなど南国の花が咲き乱れる、夢のように美しい町でした。寮は留学生用ではなく、ローカルの学生用を選びました。英語のプレイスメントテストに何故か「合格」して、いきなり大学院のクラスに放り込まれ、留学生扱いをしてもらえないまま、新たな生活が始まりました。日本の大学では話すにしろ、書くにしろ、それほど多くの英語を使ったことはなく、討論を中心とした講義の準備や、凄まじい量の宿題や試験の準備、レポートの作成など、文字通り寝る間も無いような毎日でしたが、今思えば、勉強だけに集中できる時間と場所が与えられたということは、本当に幸せだったと思っています。今でも私の英語に西海岸の学生英語のアクセントが残っている、と友人たちにからかわれることがあります。若い時に身につけたことはそれだけ忘れにくい、ということでしょう。
1999~2000年は、ニューヨークのコロンビア大学でオフィスと図書館を行ったり来たりの研究中心の生活でした。1754年に設置された米国で6 番目に古く、アイビー・リーグの一角をなす名門校です。ロウ・プラザのアルママター像の向こうに映画『いちご白書』で馴染みのロウ・ライブラリーを初めて見た時には少々感激しました。カリフォルニアで生活した頃とは時代も私自身も大いに変わっていたのですが、何事につけ大らかで寛大な西海岸の片田舎の大学町と、人々の野心がきしみ合うような東海岸の大都会での生活は、違うことばかり。多様だと言われるアメリカの二つの極を体験したように感じています。「もう少しゆっくり話してもらえませんか」とでも言おうものなら、ニヤリと笑って、先ほどよりもずっと早く話されてしまうような、そんなところもある町でしたが、今、「アメリカで一番好きな町は」と問われたら、即座に「ニューヨーク」と答えてしまうような魅力のある町でした。
私たちの若い頃、外国、特にアメリカへ行くことは夢でした。最近は外国へ行くことを望まない人が増えていると聞いています。確かに日本にいても十分に情報は手に入ります。それでも、私はやはり多くの人に、若い間に異文化を体験してもらいたいと思っています。何よりも自分や自分の国を知る絶好の機会になるはずです。自分の視界がいかに限られているか、日本という国が外からどのように見えているか、是非見てきて欲しいと思います。