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ロンドン留学記 加茂川益郎

私は1994年から95年にかけて1年間ロンドンに留学した。イギリス近代の経済史、政治史についての知識はもちあわせていたが、それまで海外旅行もしたことがなかったので、ロンドンは白人ばかりがいて、そんな中で生活するのかと妙に興奮していた。
ロンドンに到着するやいなやそんな先入見は打ち砕かれた。ホテルの迎えの車の運転手はインド人であったし、街中ではさまざまな有色人種の人間が働いていた。考えてみると、イギリスは最大の植民地帝国であったから、こちらに移住して何世代にもわたって生活している旧植民地人も多いはずである。私の大家さんはパキスタン系だったが、奥さんは白人であった。一方では、パキスタン系とイギリス系の若者同士の抗争が頻発し時には殺人沙汰を引き起こす事態にもなることを新聞で知った。イギリス自身がそもそもイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドからなる連合王国である。種々の自治問題、民族問題に直面しながら多民族の融和的生活の実現に苦闘する
現実を目の当たりにすることになったのである。
留学生活は、受入先のロンドン大学歴史研究所への手続きからはじまり、住まいの決定、電話の設置、銀行口座の開設等、各種生活インフラの整備にかなりの精力を費やしたが、その過程でイギリス社会の有り様,性格も分かってきた。仕事においても、生活においても日本のように急がない。電車も数分ぐらいの遅れは正常であり、乗客も悠然としている。高層ビル群はなく昔ながらの低層の建物が使われ、中心部を除いて喧騒もなく広告の氾濫もみられない。目標の建物を探すのに一苦労するほどである。市場経済ではあっても、ビジネスやコマーシャリズムに侵されない静かな生活が堅持されていたのである。他方、政治報道は重要視されていて、政党の大会は演説・討論が詳細にテレビ放映される。当時野党であった労働党の大会において、若き党首トニー・ブレアが社会主義綱領を放棄して新路線を宣言した歴史的演説を聴く幸運にも恵まれた。
ロンドン市内にはハイドパーク、リージェントパークという広大な緑地公園があるが、市街地を一歩出るともう緑の絨毯が眼に入り癒される。私は中心部から電車で30分ぐらいのウィンブルドンパークに住んでいたが、近所に緑あふれる公園があり絶えず散歩していた。中には、広大な芝のサッカー場、多数のテニスコート、小さなゴルフ場、池もあるが、それらはまさに近所の人が日常的に無料またはきわめて安価に使用している。昼間は幼児の遊び場であるが、夏の夕方に、帰宅した人びとがテニスを楽しみ、休日には池で大人たちがカヌーを子供たちに教えていた。
さて、留学の目的である研究についてであるが、成果はあったのか。大いにあったといえる。歴史研究所では多数のセミナーが開催され世界各国の研究者が参加していた。私が主に出席していた「イギリス帝国史」セミナーで披露された諸説の中では、「ジェントルマン資本主義」論が新鮮であった。オックスフォード大学やケンブリッジ大学まで出かけて提唱者のセミナーに参加もした。森島通夫さんを含む何人かのロンドン大学の諸先生のお話をうかがうこともできたし、学会にも出席した。しかし、それらによって私の研究が進捗したわけではない。当時私は国家と資本主義の世界史的発展をテーマにしていたが、通説を脱しきれないでいた。ところが、日本を離れたことによって、私
自身の思考にコペルニクス的転回が生じたのである。留学中に著した論文、「国民国家と資本主義」によってパラダイムチェンジをなしとげた。帰国後この論文を基礎にして『国民国家と資本主義』を書き上げることができたのである。
外国暮らしは苦労も多いが、そこでしか味わえない楽しさがある。私の場合、単身生活の無聊を慰めてくれたのは音楽会であった。ロンドンでは、著名なオーケストラやソリストの演奏を信じられないほどの低料金で聴くことができた。足繁く通ったのは、テームズ河畔のロイヤルフェスティバルホールであった。寒い冬の夜、右手対岸にウェストミンスター寺院頭上の明月を見やりながら、ウォータールー駅へと帰路を急いだことが懐かしく思い出される。
近隣ヨーロッパ諸国への旅行も忘れがたい。家族との3週間にわたるドイツ、オーストリア、スイス、フランスへの鉄道旅行、秋田茂氏(イギリス史研究。現在、大阪大学)がドライバー兼案内人となってくれたアイルランド紀行、マドリード、トレド、コルドバ、セビリア、グラナダを巡ったスペインひとり旅、それぞれに興趣があり、エピソードにも事欠かない。
留学は文句なく面白くて有益である。カルチャーショックを与え、思考の枠を広げ、精神の自由度を格段に高める。若い内にぜひ実行されることを勧めたい。