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| 敬愛大学 第3回高校生論文コンテスト 最優秀賞 |
| インターネット社会と「本当の絆」 |
| 静岡県立沼津東高等学校2年 佐々木 亮子 |
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コンピューカ丁の電源を入れ、メールを受信し、返信し、行きつけのお気に入りのサイトをチェックする−この一連の動作は今や私の日常生活の中でお決まりの日課になっている。時間のある休日などは、インターネットの世界に溢れる無限の情報を辿るうちに、気がつけば数時間、というのもざらである。初めて我が家にやってきた時以来、インターネットは私の生活に空気のように溶け込んで欠かせないものになってきた。 それだけ自分の日常に馴染んでいるインターネットなだけに、ニュースなどで頻繁にインターネットを利用した犯罪や嫌な事件を耳にしたり、「ネット世界は危険」というレッテルを貼る人たちを見たりすると、少し複雑な気持ちになる。特に、昨年6月、長崎県佐世保市で小学6年の女の子が友達の女の子を殺してしまった事件で、インターネット上の掲示板でのやり取りが殺人への動機の1つとなったという報道を開いたときは、自分自身も彼女たちと同じくらいの年齢でインターネット社会へ浸っていただけに、大きな衝撃を受けた。被害者の女の子による掲示板上での誹膀・中傷。教育者である大人たちは、そこから<インターネットの危険性>や<言葉の暴力性>を子供に説いて、同じような悲劇を起こさないようにしようというようなことを言っていたが、事件から一年が経ち、その後の指導の経過はどうなのだろうか。事件を起こした彼女たちが事前にその指導を受けていたら事件は防げたのか。私はそうは思えない。なぜなら本当のネット社会の落とし穴は、そのところにあるからだ。 私の家に初めてインターネットがやってきたのは、私が小学5年の時たった。その頃はアナログ回線で電話との同時使用もできず回線速度も非常に遅かったが、それでも私はすぐその新しい魅力的な世界の虜になってしまった。初めは好きなキャラクターのサイトを訪れることから、徐々にそのコミュニティに参加するようになり、そこでネット上の友達をつくり、それからその友達の開設するサイトヘの訪問に勤しむようになり……。小学生の頃、周りに本音を話し合える友人を持てず、嫌われていたわけではなくても心のどこかで孤独を感じていた私は、そのネット上の人間関係に対して本当の癒しを求めていた。しかし、中学に入学して学校生活が忙しくなったことをきっかけにその社会からフェードアウトし、今ではその友達がどうしているかも知らない状態になってしまってから気づいたのは、その頃の自分にとってのネット社会とは、自分の望む人間関係を得られる場所ではなく、理想の自分になれる場所でしかなかった、ということだった。 思春期は、一般に、「子供と大人の狭間でどちらにもなりきれず悩む時期」と言われる。中でも特にその初期は、経験も乏しく精神的にも未熟であり、まだ「自分」というものを模索する過程にも至っていないと思う。その状態でも、漠然とした「理想の自分」というものが心の中に存在していて、それゆえに、気取ってみたり、無理に背のびしてみたりしたくなる。当時の私の場合、少しでも「大人」に近づきたい、というのが自分の望みだった。それを、活字のみで人間関係が築けるネット上で表現しようとしたのだ。実際、私はなるべく落ち着いた文章を書くことで、「大人」ぶるということもした。使い慣れない敬語を使ってみたりした。それで自分は満足していたが、所詮それは虚栄であり、実のないものだったと思う。 自分がそれに気づいた時、ニュースで聞いた佐世保市の小学生のネット上での姿にも、同じものを見た。彼女たちは学校での友情同士でもあった点が私と大きく違うがネット上での姿には相違ないだろう。自分の中の弱い部分と向き合う前に、「本当より強い自分」を理想とし、それをネット上で実現しようとする、その姿勢は加害者側にも被害者側にも感じられた。彼女たちに必要だったのは、<インターネットの危険性>に対する知識か、違う。それで<言葉の暴力性>に注意することか、それも違うだろう。なぜなら言葉の暴力性など承知の上で言葉を選んでいただろうからだ。ただそれは相手を本気で傷つけるためではない。その言葉を吐く自分に酔うためだったのではないだろうか。 彼女たちに必要だったもの、そして同じ悲劇を繰り返さないためにも子供たちに必要なものは、実社会での「人と人との絆」の大切さ、そのぬくもりを知ることではないかと思う。それは学校の道徳の授業などで上から押し付けるように指導するのではない。子供たちが自分たちで感じ、学ぶべきものだ。 ネット社会の危険性として、「顔が見えない」という点を指摘することが多い。しかし、「顔が見える」実社会においても、私たちは、常に危険と隣り合わせであり、その点ではネット社会も実社会も同様である。ネット社会で多くの人が陥りやすいのは、リアルタイムでの対話とは違う活字による意思伝達によって容易にお互いの本音を交換できることで築かれた関係を、「本当の絆」と錯覚することだ。「本当の絆」とは、互いに信頼しあい、自己満足ではなく相手の存在を必要とすると同時に自分も相手のためにあろうとする関係である。ネット社会でお手軽につくりあげられた人間関係を「本当の絆」とは呼べないことは、近年ニュースでも度々 とりあげられる「自殺サイト」の例をとっても明らかである。生きる意味を見失った孤独な人間同士が仲間を募って自殺に走る。同じように人生に行き詰まった仲間がいるのだから孤独ではないはずだし、これがもし実生活の出会いであればお互いに励ましあうことで死によってお互いの人生のすべてを終わりにしようとは思わないだろう。活字の交換によって成り立つ人間関係には限界があるのだ。実社会における本当の人と人との絆は、長い時間をかけて、その人の顔、仕草、雰囲気などの外側の部分と、価値観、意思、感情などの内側の部分の両方を理解することで築けるものだと思う。それゆえの信頼関係であり、そのどちらか一方を理解しただけでも、「本当の絆」とは呼べないのだ。 インターネットが普及し、それよりももっと手軽に他人とコミュニケーションができる携帯電話が普及し、人と人との関係は多様化してきた。携帯電話のメールアドレスを交換し、数行のメールをやりとりすることで手っ取り早く相手との関係を深めようとする人も多い。しかしそれで深められたと勘違いしていては、いつまでも希薄な人間関係しか築けないだろう。相手を尊重し、思いやる気持ちを育てるには、まず活字に頼ったコミュニケーションを考え直し、生身の人間同士の接触を大事にするべきだ。情報技術の進歩によって人間関係が多様化した現代でも、生身の人間同士の「本当の絆」を大切にしたい。 |
| お問合わせ 敬愛大学高校生論文コンテスト係 |
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