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敬愛大学 第2回高校生論文コンテスト 佳作


新風
鎌倉女学院高等学校3年 柳川 晴佳

 「子どもの個性を伸ばします」これは幼稚園の園児募集のキャッチフレーズなどにいかにも用いられそうな言葉であるが、ここにいくつかの疑問が生じる。そもそも個性とは何であり、教育によって引き出し、伸ばすことが可能なのかという問題だ。

 私にはこのキャッチフレーズが詭弁に見えてならない。個性とは一般に、他の人との違いやその個人特有の性格のことをいう。日本の現代社会では個性を伸ばそうという試みは美徳だと受け取められているが、個性豊かな人間を多く社会へ輩出することはどのようなことなのであろう。

 「個性溢れる人」と言えば聞こえが良いかもしれないが、これは裏を返せば周囲と異なる人物、つまり「風変わりな」人とも解釈し得る。大学教授の養老孟司さんは、その著書『バカの壁』の中で、「『個性』を存分に発揮している人が見たければ、精神病院に行けばまったくもって個性的な面々揃いだ」と言っている。確かに、平々凡凡とした一般人の常識にとらわれない精神異常とみなされる人々は個性的な人の代表格と言って良いだろうが、この様な人々がそろってしまっては、日常生活はひどく秩序の無い状態となってしまう。ある個人が「個性的」である為には、その基準となる「一般の」または「普通の」人の存在を前提としているのだ。

 「個性」を伸ばそうという教育目標に反して、教育者に求められているものは常識と教養を兼ね備えていること、そして知性である。その「常識的」な教育者が「個性的」な人間を育てようとは、実際無理な注文だ。仮に、ある先生が個性的な子どもを見付けてその個性を伸ばしてあげようとすれば、多少のルール違反の容認は避けて通れない。個性を守るということは、一般常識から、程度の差こそあれ逸脱した行為を正統化する作業だが、それは一方では単なる依怙贔屓と見られてしまう危険があるのだ。

 以上述べた点は「個性」を重視した結果起こることが予想される弊害だ。しかし、「個性的」である故に高い評価を得ている人々も無論存在する。その例としては、優れた芸術家たちを挙げることができるだろう。その中には、モーツァルトの様に幼い頃から才能を認められた人もいれば、ゴッホの様にその存命中は認められることなく極貧の生活を送った人もいる。いつ評価されるかは異なるが、彼らに共通することは、芸術の世界に新風を巻き起こしたことである。美術史の研究者である青山昌文さんの著書『美と芸術の理論』には、この様に書いてあった。「『模倣』とは『創造』に本来的に寄与するもの、更には『創造』の核心ですらあった」そして、「モーツァルトやピカソのような(中略)大芸術家たちもまた、極めて数多く古代人の模倣や、自然つまり本質の模倣を行ってきている」と。このことからも分かる様に、「個性」や独創性を上手に発揮する、換言すれば、既存の常識からの逸脱を適度に抑える為には、先人たちの知恵を学び、土台を堅めていく必要があるのである。

 そこで、先に述べた通り、教育者には常識や知性が求められている。これは理にかなっているだろう。まず第一に教育が求められているものは一般的な教養や知識を身に付けるべき場や機会を与えることである。変に「個性」を伸ばそうと気にかけずとも、これまで行われてきた教育は、結局は「個性」を伸ばすに欠くことのできないものだったのだ。

 私は先程から「個性」を伸ばすという表現を用いてきたが、私たち、つまり教育を受けている者もしくはこれから受ける子ども達に求められているのは、本当に「個性」なのだろうか。結論から言えば、私はそうは思わない。私たちは、「個性」の名の下に、既存の発想にとらわれない新鮮さを求められているのだ。それは別の表現をすれば、大芸術家達の起こした、新風そのものである。それでは、「個性」と「新風」はどう違うのだろうか。

 その相違点は、「新風」が単に新しい手法を表すのに対し、「個性」がその新しい、特有な性質の所有を「個」に限っていることにある。新しいものを創り出そうとする時に、その創造者が一人である必要はない。以前、私の家にアメリカから友人がホームステイに来た時、彼に何かユニークなものはあったかと尋ねたところ、彼は日本の風呂が面白いと言っていた。シャワーは元々西洋のものであるが、日本人はそれを上手に自分のものに創り変えたと。なるほど、アメリカでもシャワーと浴槽が広く使われているが、日本のシャワーが浴槽の外に取り付けられているのに対し、アメリカでは浴槽内に水が落ちるようになっている。シャワーと浴槽、同じものを用いているが、日本ではシャワーを、アメリカでは浴槽を、生活の中に取り入れようとした時、それぞれの伝統的習慣を土台に、原物に新たな発想を吹き入れたのである。この様に、「新風」は突出した誰かの「個性」に頼らなくても、他からの刺激によって生み出すという相互関連による方法もあるのだ。

 教育によって「新風」を創り出す能力を養うためには、刺激を与える必要があるのだ。これは前述した一般教養、知識の習得に次ぐ第二段階である。私はこの第二段階として、アメリカ人の友人を自分の家へ受け入れ、また反対に彼の家へホームステイする機会を得た。これは私にとって大きな刺激となり、具体的な変化としてはそれまでは私の中で一教科でしかなかった英語がコミュニケーションの手段となり、異文化と接する楽しみを知ったことだ。私がこの機会を得たのは、学校の姉妹校交流を利用できたからだ。しかし、この様な機会は全ての人に与えられるわけではないだろう。異文化との交流は、何も国外に限ったことではない。他者との関わり、多くの地域との交流を深めることは国内においても無論可能である。そこで、この第二段階にこれから求められることは、異文化交流、つまり刺激を受けるきっかけをより広く提供することだろう。学校に限らず最近では姉妹都市の交流も盛んになっている。これらの機会の増加は、私たちに多くの刺激を与え、自分と異なるものへの柔軟性を高めてくれることだろう。私はこれからも、第一段階である土台堅めと、その次に、周囲からの刺激を受け入れる開放性を持つことを心がけていきたい。



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