![]() |
![]() |
ホーム ご挨拶 募集要項 過去の開催実績 マスコミ掲載履歴 お問合わせ |
| ホーム > 過去の開催実績 > 第1回(2003) > 審査結果 > 優秀賞 |
| 敬愛大学 第1回高校生論文コンテスト 優秀賞 |
| 常識とは何か |
| 吉祥女子高等学校2年 梅澤 志帆 |
|
私たちは、常に常識というものに囲まれて生きています。私の短い人生の中にさえ、中学生には中学生なりの、小学生にも小学生なりの、幼稚園生には幼稚園生の常識があったように思われます。「常識」という言葉を知らない、とても幼い頃から既に、私達の周りに常識というものは存在し、私達はそれに無関係ではいられず、逃げることもできません。 しかし、それでは一体、常識とはどういったものなのでしょうか。 例えば、常識は私達を常に試しています。「こんなことは常識だよ」 自分の知らなかった事実、事件、知識、そのような情報をそう指摘され、慌てることもしばしばあります。そしてそのように慌てることがあまり頻繁に起こると、私達は「常識はずれの人」のレッテルを貼られてしまいます。 また、常識は私達の周りに人間関係を築きます。自分がある話題について、正しいことだと認識して意見を述べるとき、相手がそれに共感してくれると、私達はその反応に安心します。つまり、「自分は間違っていなかった。自分は正しいのだ」と改めて確認することができるのです。その繰り返しによって大勢の人が同じ意見をもっていることがわかった場合、私達はその人間関係の中に、安心して身を置くことができるのです。そしてそのとき、私達はこのような、自分と同じ意見を持った大勢の人達のことを「常識ある人」と呼んだりします。 また、常識とは常に大多数派の意見の味方をします。先に述べたように、大勢の人が同じ意見を持っているが故に、その人達は「常識のある人」となることができるわけです。ですから、たとえ意見がどんなに的を得たものであっても、それに賛同するのが少数であると、それは常識となることができません。それは、少し「ズレ」ている、と認識されるわけです。 このように、これら三つの点からみると、常識とは、私達にとって、私達が社会で生き、人間関係を持ちつなげていくために必要な、必要最低限の知識、またはマナーと言えるのではないでしょうか。つまり、常識とは私達にとって生活の中で尺度なるものであり、無くてはならない、欠かせない存在であるのです。 しかし、実際には、「常識」の存在についてこのような定義をすると疑問が残ります。確かに、一人の人間には想像もつかないほど様々な人間、様々な考えが溢れている社会という枠組みの中では、考え方、生き方に、なにかしらの「基準値」が無ければ、私達はどのように行動すべきかを見失い、一体何が正しい、あるいは間違った行動であるのかを、判断することができなくなるでしょう。しかし、現在世の中で「常識」というものがそのように、私達の生活の指標となっているかというと、残念ながらそれは違うようです。むしろ、現在「常識」と呼ばれるものの類は、私達を困惑させます。今の私達は、「果たしてこれは本当に常識なのだろうか」と疑問に思いつつも、それに飲み込まれていくように思われます。一体これはどうしてなのでしょうか。 前に定義した「常識」と、実際私達の周りに存在している「常識」にはある大きな違いがあるようです。つまりそれは、人の前に常識が来るか、後に来るかという違いです。私達にとって、常識というものが生きていくための方針となるためには、まず私達が生きなくてはいけません。つまり、まずは私達が行動しなくてはいけないのです。私達が社会の中に参加していき、様々な人との関係を持つなかで、私達は何かトラブルが起こった時に、「自分はこのように対処した」とか「あそこで自分が譲らなかったから失敗した」などという経験を増やしていきます。そしてそれを繰り返していくうちに、私達の中で、社会の中で「うまくやっていく」方法というものが、自分なりにできあがっていくのです。そのようにしてできあがった各個人の方法が、社会生活のなかで無言のうちに不文律化し、世の中の多くの人の総意となって、初めて常識というものが生まれるのではないでしょうか。ですから、常識が形成されていくのには、私達の行動は無くてはならない要素なのです。そして、常識と私達の生活がお互いに循環し、密接な関わりを持っていることもわかります。 しかし、現代の常識はこのようではありません。私達は常に、常識として掲げられている事物について、本当にそれが常識であるかどうかわからないのです。そうしてそれに疑問を感じつつも、そのなかに飲み込まれて生きます。そして、これこそが、常識が人の前にきているためなのです。つまり、私達の生活によって常に変化していくはずの「常識」が、逆に私達を振り回し、私達は常識に随従する形で社会生活のなかに巻き込まれていくのです。そのため、今日の私達にとって、常識とは、自分たちの知識を再確認し、改めて納得するための機能ではなく、世間に乗り遅れないための一種の資格、または課題のような存在になっているのです。 しかし、これは一体なぜこのようになってしまったのでしょうか。私は、ここに日本社会の落とし穴があるように思われます。 日本という国は、古くから見本とすべき国が既にあり、それらの国の文化を吸収することで、日本を発展させてきました。私達は異文化の情報をうまく自分たちのなかに取り組むことに長けていたのです。しかし、現在の日本ではこの長所が逆に私達の足元をすくっているのではないでしょうか。つまり吸収することに慣れた私達は、いつでも総じて受身の体勢であるのです。他国を真似ることによって見事に発展した日本国ですが、そのために、実はあまり自分の意見というものを必要としなかったのではないでしょうか。自らが創り出さなくとも目に見える位置に良き手本があったためです。 しかし、現代になって、そのやり方は既に通用しないところまで来ているようです。常に受身である人間は、多方面から見ればとても利用しやすいものです。私達は、「常識」と言う名を付けられた商品に飛びつき、知識を覚え込み、思想に賛同します。そのようにして、私達は巧みに統一化されていきます。特に私も含めて、私と同じ年代の者たちはそれが顕著です。私達は、自分1人が「遅れ」ないために、これからも「常識」を上手にこなしていかなくてはならないのでしょうか。 やはり、これには自分自身の強い意志が必要です。しかしそれだけでは不十分なのです。自分の考えを持つことも必要ではありますが、そうしながらも、人の考えを受け入れることが大切なのです。多くの場合、常識こそが自分の意見であると思い込み、その他の考えを「常識外れ」として受け入れない心が、私達を「常識」のなかへ押し込んでいくのです。ですから、私達に今必要なものは、主体的でありながら、外から情報にも耳を傾ける余裕のある柔軟な意志。これに他ならないのです。そして常識とはそのような意志によって生まれてくるべきものなのではないでしょうか。 |
| お問合わせ 敬愛大学高校生論文コンテスト係 |
|
〒285-8567 千葉県佐倉市山王1-9 電話:043-486-6210(代表) FAX:043-486-2200 E-mail:koukousei@u-keiai.ac.jp |
|
| Copyright (C) 2003-2007 Keiai Univrsity. All Rights Reserved. | |