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敬愛大学 第1回高校生論文コンテスト 最優秀賞


本当に捨てているもの
千葉市立稲毛高等学校2年 都丸 芙美

 散歩に出れば目に入る、ペットボトルやお菓子の包みが捨てられた道。こんな風景が私の周囲にはたくさん存在するが、悲しいことにそれが半ば当たり前と化しつつあるように私は感じる。家の近所の公園には散らかされたゴミにカラスがたかっているし、最近閉鎖されたレストランの駐車場にも1ヶ月経つか経たないかのうちにゴミの姿が見えるようになってしまった。ゴミをゴミ箱へ捨てるなんて幼い時に習うことである。それを何故今出来ない人がいるのだろう。私はもっと「捨てる」という行為にこだわるべきだと思う。ゴミを捨てるのが人間である以上、人とゴミはつながっているのだ。それを自覚することが、やがてゴミのある風景に違和感を感じることになっていくと思う。

 では、そもそも「捨てる」とはどういうことなのだろうか。私は学校内で気になっていることがある。それは、飲み物のパックが教室の棚や廊下のちょっとした所に置いたままになっていることだ。中身は空のようだが、誰が飲んだか分からない物なので片付けにくく、いつまでも置いてあることが多い。つまり焼却されたりリサイクルされたりせず、いつまでもゴミのままなのだ。考えてみればこれは道端にペットボトル類をポイ捨てするのと同様、ゴミをゴミからぬけだせない状態のまま放置する行為であろう。私はポイ捨ては「捨てた」ことにならないと思う。確かにその時持っていたゴミをすぐ自分の前から消すことはできるが、そうして捨てられたゴミがいつまでも残っているのだ。これは根本的な解決にはならない。自分の手元からゴミをなくすことではなく、ゴミとしてしかるべき処置がとられる場所、ゴミがゴミでなくなる場所へ持っていくことが「捨てる」ことではないだろうか。

 また、私はポイ捨てをしにくい環境を作っていくことも大切だと思う。以前に本で読んだのだが、まったく何も捨てられていない場所にはポイ捨ては起こりにくいらしい。しかしたった一つでも物が落ちていると、そこからポイ捨ての連鎖が起こりゴミが広がっていくのだという。言われてみれば確かに思い当たる節がある。

 私の通学路の途中にレストランがあり、そこが最近閉店してしまった。しばらくは何も無い綺麗なままだったが、一ヶ月程して台風が来た時に飛ばされてきたらしい傘の骨が店の駐車場に落ちていた。そしてそれを始まりにペットボトルや何かの容器が捨てられるようになってしまった。

 私はたった一つのゴミがこれ程確実に他のゴミを呼んでしまうということに驚いた。またこの傘の骨のように直接そこに捨てられたのではなくどこかからか飛ばされたような物でも、ポイ捨て連鎖の始まりになることにも気付かされた。私たちが何気なく捨てた物やちょっとした拍子に風に飛ばされた物でさえ、多くのゴミの始まりの一つになり得るのだ。「一つくらい平気だろう」と言う考えは通用しない。私は一人一人がゴミと道を切り離すことを徹底して考え、自分の持つ一つのゴミの重さを自覚すべきだと感じた。一という数はポイ捨て連鎖を起こすには充分すぎる数なのだ。

 最近では小学生などもポイ捨てをしているらしく、コンビニの前にカードやシールが落ちているのをよく見かける。それは、道にゴミがあるという風景になじんでしまっているからではないだろうか。あるいはポイ捨てをする大人が身近にいるのかもしれない。いずれにしても、ポイ捨てという行為がずっと身近になってきている気がする。そうしていつかポイ捨てが当たり前のようになってしまったらと思うと不安である。ポイ捨ての大きな連鎖はここまで続いているのだ。

 もし私たちがこの連鎖を止められなければどうなってしまうのだろう。あるテレビ番組で土を掘り返してみたら土中から大量のゴミが出てきたという映像を見たとき、私はどきっとした。土の中のペットボトル空き缶が形を留めたままだったのだ。理科の授業でペットボトルやビニール袋のように人工的に作られた物は土に埋めても分解されないと聞いていたが、実際に映像を見て人間が自然に溶け込めないものを作ってしまったことを実感させられた。あの道のゴミたちもいつまでも同じ形のまま残り続けるのだろうか。ずっとずっと何億年も後、やがて地中から化石ではなくペットボトルが見つかってしまう時代がくるのだろうか。私はそれはとても哀しいことだと思うし何より恥だと思う。私たちは先延ばしにせず、今ここでこのポイ捨ての大連鎖を止めるべきだと感じた。

 ゴミというのはもともとは人間が使っていた物であり、その差は紙一重であると思う。だから私たちがゴミを出さずに暮らすのは難しいことである。それ程ゴミは生活に密着した存在なのだ。だからこそゴミを「捨てる」ことをいい加減に考えるべきではないと思う。ゴミに意志が無い以上、ゴミ箱の中のゴミも道端のゴミも、それを捨てた人間性を反映しているのだ。ゴミを道端に捨てるのは自分の非常識をさらすようなもので、それがペットボトルのような朽ちない物ならなおのこと、ポイ捨てをしたそのときのいい加減な気持ちがいつまでも残り続けるのである。ゴミをただゴミと見ずに、こうして自分とつなげて考えてみるとポイ捨ての恥ずかしさを実感できるだろう。私も、自分が単にポイ捨てをしないだけでなく、自分から始まる連鎖の無いように注意していきたい。道端に落ちているゴミは単なるゴミではなく、捨てた人の人間性なのだ。道端に転がるような人間性は持ちたくないものである。



お問合わせ 敬愛大学高校生論文コンテスト係
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