海外スクーリング ~フィリピン~
プロジェクトに学ぶ 大田 佳江
マージナルランドのプロジェクトの方たちと記念撮影
マージナルランドのプロジェクトの方たちと記念撮影

 いよいよ、出発の9月9日がやって来ました。スーツケースと斜めがけのバッグを持って成田空港に。嬉しい事に、一つ上の先輩が見送りに来てくれました。そして、心配をしていた飛行機に乗るまでの手続き。係の人に何か聞かれるかなって、ドキドキの連続でしたが、そんな心配も必要なく、無事に搭乗手続きを済ませることができました。

 飛行機では、柳原先生の近くに座り、初めての機内食も「ビーフ プリーズ」「イエス」のみで済みました。フィリピンまでの所要時間はたったの4時間で、あっという間に着くことができました。

 飛行機を降りる瞬間、雨期とは言えども日本よりも随分暑いのだろうと思いながら、1歩、飛行機の外へ。まだ、機内のクーラーの冷機が漂っている。2、3歩前へ。何となく熱気が伝わってくる。そして、マニラ空港の中へ、人の流れに乗りながら入って行きました。そこは、気温は、日本の夏の暑い日と変わらなかったです。それよりも、人の熱気がすごかったです。出稼ぎの家族を待っているのか、空港の外から中をガラス越しに覗いている人がいっぱいいました。

 マニラにいる間にお世話になる、現地ガイドのアンリーと対面をし、いざ、空港の外へ。そこは別世界でした。車は次から次へとやって来ては、急発進して去っていき、乗用車に荷物が詰まった中にさらに5、6人乗って最後にはトランクに2人くらい乗ったりしていました。そんな驚きはまだ序の口、ホテルへ向かう際に街を少し通ったのですが、街は車で溢れていました。追い越しは当たり前で、クラクションはそこら中で鳴り響いていて、スピードはどの車も常に、7、80キロは出していたのではないかと思います。

 ホテルに着いた後、「リサール公園」と「マニラ大寺院」へ行きました。その際に、「ジープニー」に乗ることができました。感動しました。だけど、車が多い分、排気ガスの量も多くて、窓がないジープニーは臭かったです。

 リサール公園は、日曜というせいもあってか、観光客と一緒に地元の家族連れらしき人達も多くいました。フィリピンは、キリスト教徒が多いので、日曜日はみな休日という事らしいのです。ここまでなら話が分かりますが、宗教のギャップを感じたのは、信号機が壊れていても、修理屋さんは休みで、月曜日に直されると聞いた時でした。

 そして、リサール公園には観光客と家族連れのほかに、土産を両手に持ち、カタコトの日本語で「じぇんぶ。じぇんぶ。」と売り歩いている中年のおじさん達がいました。日本では、働き盛りなのだろうけれど、失業率が11パーセントという高さで、しかも一家族の人数も多く、観光客相手に土産品を売ってでもしないと生活が成り立っていかない現状のように思えました。このような人は、至る所にいて、おじさんだけでなく、子ども達もよく見かけました。

 次に、マニラ大寺院へ行きました。とても装飾がきれいでした。中では丁度、結婚式を挙げていて、マリア像やステンドグラスと同じように、ドレスアップした花嫁さんがとてもきれいでした。

 外には、招待を受けたらしく、白くて、しわが一つもないシャツとズボンをはき、髪の毛もきれいにしている男の子がいました。その脇では、薄汚れた服に裸足の子どもが私たちに手を差し出し、言葉もしゃべらず、ただ「ウーウーッ」と、うなってお金をせびっていました。この体験が初めて肌で感じた貧富の差でした。

 この後、ホテルの向かいにあるショッピングモールへ行きました。そのモールの中に、入るのに警備の人がいて、いちいちバッグの中を見せなくてはいけませんでした。このような事は、ホテルへ入る時もそうで、警備の厳重さに驚き、治安の悪さがこのように出ていると思うと、とても切なくなりました。モールの中は、日本と変わりなく、何でも揃っていてセブの時もそうであったように、モールにいるとフィリピンにいることを忘れてしまいそうでした。

 2日目からはいよいよ本題のプロジェクト見学が開始されました。まずは、JICA事務所へ表敬訪問をしました。事務所へ行くまでの街並みは、大都市のビル街でした。行く前に柳原先生に「フィリピンにもビルとかありますよね。」と、聞いた私がすごく恥ずかしい位にビルは建ち並び「銀行通り」という名が付く通りもありました。JICA事務所もそういったビル街の一角にありました。

 そこでは、フィリピンの全般的な現状、問題点を伺うことができました。フィリピンは今、あらゆるジレンマを抱えていることが分かりました。経済活動が乏しいということから多義にわたっての問題が生じてきているとのことです。2割の人が1日3食を満足に食べられなく、乳児死亡率が約10パーセントであったり、徴収率が低いということも重なって国家予算が少なく、国内にある、環境、教育、社会不安などの問題を解決しようにもできない。そのため、対外的に国民が借金している状態になってしまっている。JICAなどが現地の人の技術を向上させる援助を行っても国内には職がなく、あっても給料が安いため海外へ流れていってしまうといった感じで、フィリピンの経済がなかなか向上をしていかないようです。

 昼食は同じビルのフードコートでしましたが、そこで初めて英語を使いました。意外と通じるものだと嬉しくなりました。

 午後からは、予定されていたことから離れて、ずっと関心をもっていたHIVプロジェクトの方へ行きました。このプロジェクトはすでに終了をしていたのですが、無理を言って話を聞かせていただいたのです。ここで、フィリピンのHIVの現状はもちろん医療の現状も伺うことができました。

 フィリピンの医療は大きく二つ、「感染病」と「その他」とに分けられるほど、感染病は大きな問題だということです。その感染病の一つであるHIVは意外にも日本よりも感染している人が少ないようですが、国外からウイルスが持ち込まれることが心配されているのです。国民の意識も薄く感染者が社会復帰をすることが困難であるという壁にも直面しています。本当に世界的な問題であると思いました。

 この日の晩に敬愛の卒業生でフィリピンに留学をしている平野志穂さんと食事をすることができました。志穂さんは高校生の時にボランティア活動をし始めて、今はフィリピン大学へ通っています。周りは英語だらけの世界で、要望が通らないこともあるそうですが、すごく前向きでパワフルに生活されているようでした。すごい。素晴らしい。

 3日目は、「マージナルランド・プロジェクト」を見学しました。フィリピンは今、人口が増加しつつある現状で、低地はほとんどが居住地として埋め尽されてしまい、残された肥沃度の低い丘陵地の土壌を改善していこうというプロジェクトでした。しかしごく一部の豊かな人達がその丘陵地を買い占めて、職のない貧困層の人達が小作人として雇われているという現状です。その給料は低く、しかも、作物を育て収穫するまでに時間がかかるということで小作人のようになっている農夫達のやる気がなかなかでないようで、いくらJICAが土壌を改善をしても経済発展にうまくつながらないといった悩みがあるそうです。

 私たちは、土壌を研究しているセンターへ行った後、実際にフィールドを見学しました。丘陵地にあると聞いていても2時間かけてのバスの旅はきつかったです。でもその後には、ご褒美があり、生の椰子の実ジュースを頂くことができて、すごく嬉しかったです。そのフィールドにはココナッツやバナナはもちろん、南瓜、メイズ、パイナップルなどが植えられていました。案内してくださったJICAの大倉さんが、「日本は今、食べ物を輸入に頼っているが、フィリピンのように、輸入国側の人口が増えてきて、輸出する余裕が無くなった時、『日本の食』はどうなるだろう。」と、言っていました。真剣に考えなくてはいけない問題であると思いました。

 次の日、セブへ向かいました。マニラは躍動的でしたが、セブは建物もあまり無く車もあまり走っていませんでした。

 13日、セブでの見学が始まりました。この日は私が一番興味を持っていた「地方部活性化プロジェクト」の見学でした。現地まで行くのに、トイレ休憩をしたのですが、その時に初の「便座なしトイレ」を体験することができました。それまで、空港やホテル、モールといった「便座ありトイレ」しか入っていなかったので、「これぞ、フィリピンだ」と思いました。

 田舎町を突き進み、まずは、練炭工場の見学をしました。工場といっても、山の上に小さな小屋が建っていて、中にはそんなに大きな機械はなく、女の人が3人で手動で作業をしていました。単純なシステムですが、コストが普通の炭よりも安く、街でこの練炭を売り利益を得ようといった狙いだそうです。ここを見学している時に初のスコールに遭いました。まさに豪雨で雷がとても怖かったです。しかし、現地の人は慣れたもので黙々と作業を続けていました。

 止んでから、山を下り、上水の施設へ行きました。涌き水が元々、湧いていてその水をうまく各家庭へ配水しようというものでした。その施設の脇にある川で水遊びをしている子ども達がいました。それに併せて、女の人達が手洗いで洗濯をしていて、JICAの清家さんの話だと、フィリピン人の多くは下級階層で洗濯機を持つ人は中級階層以上だそうです。

 最後の施設は少し離れている所にありました。たどり着くまで山道を通って行ったのですが、そこからの眺めは格別でした。椰子の林ですごく壮大でした。

 最後の施設とは、市場の下水処理でした。長年、市場の下水はそのままの状態で海に垂れ流されていて、海岸沿いに生殖しているマングローブの木々が枯れてしまっていたそうです。しかし、この施設が作られたことで、マングローブがまた生き返り始めたらしいです。

 帰りは、市場を覗くことができました。食べ物が中心でしたが、青や黄色の熱帯魚も売られていました。

 このプロジェクトを回る前は、こっちからモノを持っていってより生活しやすい環境へと変えていけば良いと思っていたのですが、それではいけないことに気がつきました。プロジェクトが終了しても持続していけるようにコストも安く、そして、元々その環境にあるモノを利用していかなくてはプロジェクトの期間だけでとどまってしまうことになってしまうということがわかったからです。

 見学最終日はまず、JOVCの酪農のプロジェクトへ行きました。このプロジェクトでは、フィリピン人は牛乳を飲む習慣が無く、育ち盛りの子ども達だけでなく大人も栄養を満足にとれていないということで、栄養度の高い牛乳を普及させようという計画を進めていました。

 私たちは殺菌場を見学しました。殺菌をした牛乳を袋詰めにしていたのですが、フィリピンではパックではなくビニール袋に詰めていました。これも、ゴミを減らす対策のひとつらしいです。

 殺菌場の次に、牛舎へ行きました。家並みを見ながら向かったのですが、本当にフィリピンはバナナの木と、椰子の木が多く、普通の家の庭にも生えていました。牛舎にたどり着き、牛達がいたのですが、藁ではなく、笹みたいな葉を食べていました。牛舎の屋根は、バナナの葉で作られていて、フィリピンらしいと思いました。

 この日は、もう1ヶ所、ストリートチルドレンが通う学校へ行きました。ストリートチルドレンは平日は働き、土曜日に学校で学ぶらしく、この日は平日だったため子ども達はあまりいませんでした。フィリピンでは子ども達もよい働き手であり、兄弟が多い子は上の子が働いて下の子の教育費をまかなっているのです。学費は、政府が払ってくれるのですが、学校を辞めなくてはいけない子が多く、その原因は、教材費が払えないからだそうです。小さい頃から、生きることに必死になって働くなんて、日本では考えられないです。

 学校の次に、子ども達が住むコミュニティへ行きました。バスケットなどで無邪気に遊ぶ子ども達の姿がありました。子ども達はすごく好奇心旺盛で、カメラを向けると笑顔で寄ってきて、子ども達から色々、話しかけてきてくれました。フィリピンでは幼稚園から、英語を学ぶので、小さい子も上手に英語を話していました。そんな子ども達に、4、5歳くらいかなっと思い年を聞いてみると、7歳だったりして本当にみんな小柄でした。

 最後の日は、セブの青い海を泳いで、もう日本へ帰るのかと思いつつ占領されていた爪跡の残るサンペドロ要塞等、市内観光をしました。

 今回、いろいろなプロジェクトを回ったのですが、本当にJICAやJOVCの人達は、輝いていたなって思いました。自分の考えに自信を持っているからこそ話す言葉に説得性があって、私もこのような人になっていきたいと思いました。そして、フィリピンは、経済的には、貧しいのかもしれない。だけれど、日本人よりは、生命力があると思います。すごく情熱的な国です。


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